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明石市は、東経135度の日本標準時子午線上にあります。
また、瀬戸内海に面しており、明石海峡をはさんで淡路島を眼前に臨むことができます。気候は温暖で、古くは万葉歌人柿本人麻呂によって多くの歌が詠まれた風光明媚な地です。さらに、阪神都市圏と播磨臨海地域、そして海を隔てて淡路・四国と結ぶ位置にあり、海陸交通のうえで重要な拠点となっています。
市の東と北は神戸市と接し、西は加古川市、稲美町、播磨町と接しています。現在、市の面積は49.41㎢、周囲は60.4kmです。最長距離は、東西15.6km(海岸線は15.9km)、南北で9.4kmあり、東西に細長いまちを形成しています。
明石市は、温暖で雨が少なく、年間の日照時間が2196.1時間で、県内2番目に晴れの日が多いのが特徴です。おおよその最高気温が33度から35度、最低気温がマイナス6度から4度で、年間の平均気温は14度から15度、年間降水量も1000ミリ程度と快適に住むことができる土地です。
大正8年(1919年)11月1日、当時の明石町が市となり、兵庫県では4番目の市として明石市が誕生しました。人口は約3万2千人、面積は7.7平方キロメートルでした。その後、昭和17年(1942年)に林崎村を、26年(1951年)には大久保町、魚住村、二見町を合併して、今の明石市の形となりました。 |
明石の「明」の字をデザインしたもの。明治44年(1911年)に明石町のマークとして決められたものを、大正10年(1921年)に市章としました。 |
西暦720年に作られた日本書紀の中に、「645年の大化の改新の時に、畿内の西の端を赤石の櫛淵(あかしのくしぶち=今の明石あたり)に定めた」との内容が書かれており、奈良時代には「あかし」の地名があったことがわかります。どうして「あかし」と呼ばれるようになったかには、いくつかの説があります。その一つに、林崎松江海岸の沖に沈んでいる「赤石(あかいし)」という岩の呼び名から「あかし」へと変化したというものがあります。また、近畿(畿内)の入り口に位置する明石市は、夜に西の方から見ると明るい土地であったため、「あかし」になったとの説もあります。
その昔、明石の北にある雄岡山(おっこさん)、雌岡山(めっこさん)の近くに住む男が、小豆島(しょうどしま)に住む美人に会うため、鹿に乗って海を渡っている途中、猟師が放った矢が鹿にあたって鹿は死に、男はおぼれて死んでしまいました。血で赤くなった鹿はそのまま岩になってしまい、それが赤石と呼ばれるようになりました。
明石駅を降りるとすぐ目の前にある明石城。江戸時代の元和5年(1619年)に、明石藩主の小笠原忠政(おがさわら ただまさ 後に忠真(ただざね)に改名)によって作られました。大阪城や姫路城のように、高さのある天守閣を作らない「平城(ひらじろ)」というスタイルの城で、城の四隅にやぐらが建てられたのが特徴となっています。今でも2つのやぐらが残っていて、南西のやぐらは「坤櫓(ひつじさるやぐら)」南東のやぐらは「巽櫓(たつみやぐら)」と呼ばれています。 | |
また、明石城を作った時に小笠原忠政は今の明石の形の基礎となる「町割り」という都市計画を行っていて、その町割りを行った人物は剣の達人、宮本武蔵(みやもと むさし)であったと言われています。 現在、明石城の一帯は県立明石公園となっていて、多くの人が訪れる憩いの場となっています。 |