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西暦720年に作られた日本書紀の中に、「645年の大化の改新の時に、畿内の西の端を赤石の櫛淵(あかしのくしぶち=今の明石あたり)に定めた」との内容が書かれており、奈良時代には「あかし」の地名があったことがわかります。
どうして「あかし」と呼ばれるようになったかには、いくつかの説があります。その一つに、林崎松江海岸の沖に沈んでいる「赤石(あかいし)」という岩の呼び名から「あかし」へと変化したというものがあります。
また、近畿(畿内)の入り口に位置する明石市は、夜に西の方から見ると明るい土地であったため、「あかし」になったとの説もあります。
その昔、明石の北にある雄岡山(おっこさん)、雌岡山(めっこさん)の近くに住む男が、小豆島(しょうどしま)に住む美人に会うため、鹿に乗って海を渡っている途中、猟師が放った矢が鹿にあたって鹿は死に、男はおぼれて死んでしまいました。血で赤くなった鹿はそのまま岩になってしまい、それが赤石と呼ばれるようになりました。