ホーム > 市政情報 > 広報 > 連載「明石のたからもの」 > 連載 明石のたからもの-10 明石焼(玉子焼)
ここから本文です。
更新日:2014年4月1日
地元で「玉子焼」の名で親しまれる明石焼は、全国に名が知られる明石名物の一つです。あげ板の上に並んだ卵色の丸い明石焼を一口食べると、ふわふわ、トロトロの生地の中に、コリコリのタコの歯ごたえが広がります。江戸時代の終わりに誕生して百数十年。明石が誇る食文化「明石焼」のルーツやおいしさの秘密に迫ります。
明石焼のお店は市内で約70店舗あります。お店によって作り方や味、こだわりもさまざまですが、焼き手の技や情熱に加え、使う材料や作る道具にもおいしさを生み出す秘密があります。
【写真】銅鍋に生地を流し込み、タコを入れてお箸でひっくり返しながら焼く。銅鍋からあげ板に移し完成。だし汁につけていただく。取材に伺った本家きむらや(鍛冶屋町)は市内でも有数の老舗(大正13年)の一つ、変わらぬ味を引き継いでいる。
明石焼の生地には、玉子と小麦粉のほか、「じん粉」が使われています。じん粉は、小麦粉のデンプンを精製したもので、加熱しても硬くならないので、小麦粉だけで作るたこ焼よりも、柔らかでふんわりと仕上げられます。
【写真】じん粉は麩(ふ)を作るときの余り物
明石焼を焼くのは、たこ焼などに使われる鉄鋳物鍋ではなく、銅鍋を使用します。熱伝導がよく、生地のふんわり感をより引き出し、絶妙な焼き加減を生み出します。
【写真】15個用の明石焼銅鍋。お店によって10個や20個など1鍋の個数も異なる
同じ銅鍋でも、丸いくぼみの全体が均一な厚みで仕上げられないとムラなく焼くことができず、特に機械打ちの銅鍋は側面が薄くなる難点があります。本町の安福保弘(やすふくやすひろ)さんは、全国唯一の手打ち銅鍋作り職人で、機械では真似できない、均一な厚みのくぼみのある銅鍋(業務用・家庭用)をすべて手作業で作り、市内外の多くの明石焼店で使用されています。
【写真】一つ一つが手作業。木槌をたたき、長年の勘と経験をもとに絶妙のくぼみを作り出す
明石の地場産業だった「明石玉(サンゴの代用品として装身具などに使用)」を作る際、玉子の白身を使ったため、余った黄身を使って作られたのが明石焼といわれています。江戸時代末期に、江戸のべっ甲職人・江戸屋岩吉が明石に滞在中、玉子が割れて寒さで白身が固まったのをヒントに、その白身を接着剤として、硝石などを混ぜて固め、人工のサンゴ「明石玉」を作り出しました。
【写真】鮮やかな朱色が印象的。大正時代中頃までかんざしなどに用いられた
大正8年、現在の樽屋町に住んでいた向井清太郎さんが屋台で明石焼を売り始めたのが「商売」としての始まりだといわれています。当時は玉子が高級品で、今ほど気軽に食べられるものではなかったとか。今の10個や20個という大きな単位ではなく、数個ずつ売られていました。
向井さんの明石焼は、評判となって口コミで広がり、大阪から業者が見学にくるほど有名になり、それがのちに「たこ焼」となったというエピソードも残ります。
※発祥、ルーツには諸説あります
正しくは地元で呼ばれる「玉子焼」。大正時代に有名な作家や芸人らが「玉子焼」を食べ親しんだとの記録も残ります。明石のまちを全国にPRするため「明石焼」とも呼ばれるようになりました。「ご当地グルメでまちおこしの祭典!B-1グランプリ」などで全国各地で明石のまちの魅力を発信している「あかし玉子焼ひろめ隊」は、「あかし玉子焼」と呼んでPRしています。
【写真】市内のお店には「玉子焼」ののれんが目立つ。全国では「明石焼」や「あかし玉子焼」として有名
明石焼と聞くと、食べ物のイメージが先行しますが、実は明石では、陶器の「明石焼」が作られていました。江戸時代中期から始まり、明治には海外に輸出されるまでに盛んになりました。昭和40年頃まで市内では日常雑器類が窯で焼かれていました。
【写真】江戸時代後期の明石焼
お問い合わせ