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更新日:2023年10月13日
所在地 |
明石市二見町福里 | |||
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時代 | 奈良時代~平安時代 | |||
概要 |
古代山陽道は律令時代に中央集権体制を強化するために、都を中心とする主要な道路を整備した1つです。 唯一の大路であり、大宰府と結ぶ当時の幹線道路でした。 山陽道沿いには30里(約16km)ごとに駅家(うまや)を配置し、駅家には20匹の駅馬(えきば)が置かれていました。 明石市内には明石駅家(太寺廃寺[推定])、仮称邑美(おうみ)駅家(長坂寺遺跡)があったとされています。 平成13年10月、発掘調査で現水田面から約30cm下より、古代山陽道跡が大変良好な状況で見つかりました。 仮称邑美駅家と賀古(かこ)駅家との中間点に位置し、長坂寺遺跡からは西に約2.5kmの位置にあたります。
検出された道路跡は南北に幅約70cmの側溝をもつもので、道路面は小石を敷き詰め補強されていました。 側溝は東西方向に平行して数条見つかっており、道の幅は最も広い所で約12m、狭い所で約6mでした。時期により道路が変更されたことが伺われます。 道路面や側溝からは、奈良時代から平安時代にかけての須恵器の杯(つき)や土師器椀、平瓦片等が出土しています。
調査現場の西側には碑沢池(ひえざわいけ)ががあり、歴史地理学の立場から、池の中央にはしる堤防が山陽道の痕跡とされていました。 今回見つかった道路の延長線上にはこの堤防があり、仮称邑美駅家と賀古駅家とを結ぶラインの方位とほぼ一致することから、奈良時代に敷設された山陽道であることが分かりました。
山陽道は現在の道路によっては削平を受けている場合が多く、発掘調査において検出された事例はほとんどありません。これまで高槻市郡家(ぐんけ)川西遺跡(幅8m)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7m)など数例を数えるのみです。 兵庫県下においては竜野市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡などの発見につぐ3例目で、市内では初めてです。 遺構の残存状況もよく、遺物が比較的多く出土した事例は大変稀で、道路の敷設時期、補修過程、構造や規格、また路線の方位を知る上で非常に重要な発見となりました。 |
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道路跡
出土遺物 |
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