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更新日:2023年10月13日
所在地 |
明石市魚住町清水字上野 | |||
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時代 | 古墳時代前期~中期 | |||
概要 |
この古墳は、瀬戸川と清水川の合流地点の北東、瀬戸川左岸の台地の西南端に位置します。 直径34m、高さ4mの市内最大の円墳で、埋葬施設は板石(いたいし)を積上げた竪穴式石室になっています。 文化5(1808)年の魚住村を描いた水利絵図から、もとは「糠塚山(ぬかづかやま)」と呼ばれていたことがわかります。
幣塚には、金の鶏が埋まっているという伝説があります。 明治19(1886)年、3年間も続いた旱魃(かんばつ)、風害、水害の凶作に困った魚住の人々は金鶏伝説を基に、この塚を八尺(約2.4m)ほど掘り下げました。 しかし、金の鶏は見つからず、一面を朱で塗られた石室から刀身1本と100個ほどの勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉が出土したそうです。 この時に見つかった遺物は、東京帝国博物館(現東京国立博物館)に届出され、そのあと地元に返却されたとのことですが、現在その所在は行方不明のままになっています。
平成4(1992)年、周囲の宅地開発に伴い、古墳西側の裾部の発掘調査が行われ、墳丘には5cm程度の円礫を葺き、裾部を取り囲むように埴輪列をめぐらしていたことが確認されました。
埴輪は直径約40cm前後が多く、合計19個、約1.8mの間隔で規則正しく配列されていました。 基底部しか残されていませんでしたが、出土した破片から、鰭付(ひれつき)円筒埴輪と鰭付朝顔形埴輪が認められました。 復元すると高さが約1mを超す大型の埴輪になります。
こうした埴輪の形状や焼成技術の特徴などから、幣塚が作られたのは、古墳時代中期初頭の四世紀後半から五世紀のはじめ頃と考えられています。また、この古墳の被葬者は瀬戸川流域を支配し、瀬戸内の海上交通圏をも握った、有力な豪族と推定さています。 |
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参考文献
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「発掘された明石の歴史展-最近の発掘調査の成果から-」(明石市立文化博物館 1994) 「発掘された明石の歴史展-器と道具-」(明石市立文化博物館 2000) 「明石市史資料(考古篇)」第4集(明石市教育委員会 1985) |
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調査風景
円筒埴輪出土状況 |
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